fashionを通していろいろ考えるblog

ファッションブログだけど、キャピっとしてないし、おしゃれではないです。

「女」が邪魔をする

ファッションとは、「性にもっとも密着した仕事」だと、山本耀司さんが著書の中で言っていましたが、私の興味はファッションを通して、さらにジェンダー問題へと進んでいます。

 

タイトルにがっついて、手に取りました。

あー、私が女じゃなかったら、と、「女」が私の人生を邪魔していると感じたことが、1度や2度ではないし、まさに、今でも、ある。

 

気になった文章を、読書メモとしてピックアップしてみます。

 

女性誌では常套句となった、「女子」という言葉への考察が面白い。

・先行世代が使った「女」や「女性」としての自意識の底にあるのは、「女って何?」「私って何者?」という問いであった。それが切実だったのはわかるけど、いい加減ウザったいものがあるし疲れませんか、ということだ。代わって出てくる「女子」にあるのは、若々しさと気楽さとカジュアルさであり、私の趣味やこだわりを最優先したいという個人主義である。「女子」はワガママであることを許される、「暴走」だってできちゃうのだ、と。

・「見られる者」として生きてきた女が、他者の視線を無視できようか。もちろん、今更男と対立しても疲れるし大して得することはない。甘えれるなら素直に甘えてみたいです。でも下手に出るのは自尊心が許しません。おっとその前に同性に嫌われないようにしなければ......。

そうした2000年代の女性の性意識の葛藤と捩じれを、牧歌的な学校のイメージに包んで曖昧化したジェンダーポジションが、「女子」である。

・「女子」という立ち位置に表れているのは、異性との、同性との、社会との間に生じる軋轢を最小化して乗り切ろうとする処世術である。

これだけ「女子」という言葉が広がったのは、今の気分をずばっと表現できるから。その、「今の気分」を見事に言語化してくれているなぁ、と思う。

 

女子をさらに細かく。

エビちゃん系女子(=王道モテ系)と対峙する、その他の女子分析。

文化系女子は、「女」として求められるものとのズレを生きている。・・・エビちゃん系女子は、女子としての生きやすさを生きようとする。それだって結構エネルギーを使うだろう。しかし文化系女子は生きにくさを生きる。エビちゃん系に対抗したくてそうなったというより、なんとなく知らない間にそうなっていたのである。

・理系女子にしろ文化系女子にしろ、少し理屈っぽくものを考えていて自意識が強い女性ならば、「普通」や「一般」で括られたり男性の作ったイメージを押し付けられることには、激しく反発する。だが一方で、「女」であることも強く意識している。それは、「性的対象としての女」=男ウケする女には積極的になりたくないが、まったくの「対象外」も嫌というダブルバインドだ。

・「女」というカテゴリーではなく、なぜ「私自身」を見て評価してくれないのかと、1回や2回は地団駄を踏む。地団駄踏むことが馬鹿馬鹿しくなってくると、「女」を習得し、「女のプロ」として強者の側に立とうと奮発する。逆に、「普通の女の子」から自分を差別化し、やや特殊な女としてのポジション取りを目指す。あるいは視線の暴力から逃走し、二次元世界に「幸福」を求めようとする。・・・表に現れる振る舞いやスタンスは異なっても、根っこは同じである。それは、最終的に性的客体としてしか評価されない性に生まれたという事実と、この自分はどう折り合いをつけていったらいいのか?という、たった一つの憂鬱をめぐっているのだ。

私は文化系女子だ・・・。

 

ファッションについても。

・ダボダボのシャツの中で体が泳いでいるのが「女っぽい」。シャツの袖を捲っていれば細い手首が「女っぽい」。カッチリしたシルエットやハードな素材とそれに隠された女の肉体とのギャップにも、エロスは喚起される。好むと好まざるとにかかわらず、「女」はどこかにはみ出してくる。言い換えると、ファッションはそれがジェンダーロールに忠実であろうとなかろうと、性的記号として機能する。着る人の意思にかかわらず、ファッションとは限りない性的幻想を再生産する装置である。

・いかに男ウケしなさそうに見えても、女性のファッションとして成立している限り、それは「ピンポイント・モテ」ファッションなのである。女ジェンダー的に気合いの入った装いは、その着合いを好ましいと思うタイプの男性に評価され、あまり着合いを入れてない格好は、その力の抜け加減を好ましいと思うタイプの男性に評価される。

・主体的に「私が好きなおしゃれ」をしている「私」を、「私」は肯定するわけだが、そこには「私」を鑑賞しジャッジを下す「他者」の目が必ずある。・・・もう1歩引いて見れば、それぞれの女子なるものを欲望する男の目である。

これに関しては、思うこといっぱい。また後日まとめよう。

 

男女のコミュニケーションの違いについて。

・有史以来、人間は、自らが所属する共同体の支配圏拡大をめぐって、絶え間なく他の共同体との闘争、戦争を繰り返してきた。そのために、仲間との友情を確かめ合う荒っぽいコミュニケーション作法が男性の間に発達し、敵を作らないための穏やかなコミュニケーション作法が女性の間に発達した、という仮説を立ててみたいと思う。前者を「喧嘩コミュニケーション」、後者を「褒め殺しコミュニケーション」と名付けよう。

・女性は、長らく容姿や若さで男性に評価され選ばれる存在であり、その仕事能力や才能については軽視される傾向にあった。そのため、容姿や若さ、つまり身体や性にまつわる事柄は、女性にとってもっとも罵倒や中傷から守られるべきものとなり、「自尊心の最後の砦」に囲い込まれた。それについて親しみを込めてであってもコキ下ろされるのは、いくらか大袈裟に言えば、自己の存在を否定されるに等しいことになる。

だから今でも、女性の「褒め殺しコミュニケーション」は、才能や能力についてより、容姿やおしゃれにまつわることが多い。

・「褒め殺しコミュニケーション」に違和感を覚える時、その女性はおそらく、同性間の癒しムードに隠された女性の位相の歴史的な惨めさに感づいているのではないかと思う。

ふむ。

 

男性について。

・欲望せよ。しかしそれが暴力になることも自覚せよ。このジレンマを彼らは生きねばならない。これを「男のストレス」として受け止める男性から見ると、時と場合によって能動性(男前な女)も受動性(女らしい女)も自在に使い分けることの可能な女性のほうが、ずっと生きやすいように見えたとしても不思議ではない。

それは、最近、よく思う。

 

そして、「女」とは。

・そもそもの最初にあるのは、「女」というファンタジーを語る男の欲望の経済圏である。それが、「男/女」というジェンダー二項対立によって作られる文化を駆動させている。その中で「欲望する性」であることが、男性に「男である」という社会的お墨付きと性的アイデンティティを与えてきた。そこでの「女」とは、男の対象として評価される「女」である。「女」とは虚構、つまり男の幻想の集合体であって、もちろん生物学的な意味ではない。

・こうした中で女に生まれた者は「女」を学び、自己の内に取り入れていく。「女」をある程度習得しなければ「女」と承認されず、欲望の経済圏たる社会で流通できないからである。

・異性に「女」として見られ欲望されることは、多くの(ヘテロの)女性にとって快楽である。しかしまたそれは、苦痛や違和感をもたらす。だから女性は、若い時期に一度は「女」になってしまうことに抵抗する。いや一度ならず抵抗する。そうした葛藤を経、あるいは葛藤を密かに抱えつつ、典型的な「女」から純度の低い「女」、パートタイムの「女」まで、女は多かれ少なかれ「女」を仮装し、「女」に擬態するのである。

・女性は皆、支持体=「女」以外の何かを、自身の内にもっている。「女」を完全に避けて通れない一方で、「女」以外の何かは捨て去ることができないものである。・・・まずは「女」ということが前提にあり、それが文化として内面化されてから、初めて「女」以外のものが立ち上がってくるのだ。

・それは「女」になりきってしまうことをめぐる葛藤の中核にあり、「女」を仮装し、「女」らしさをそれなりに身につけた後で、その「女」に抵抗し「女」を挫折させるかたちで顔を出す。ある時は、擬態が完璧なゆるふわ愛され系への距離感として。ある時は、処女にこだわる心性を美化する男への軽蔑として。ある時は、「『女』ではなく私を見てほしい」という"青臭い"言葉として。

 

著者は、1959年生まれ。私より20歳年上である。正直、20歳の差は、ジェンダーの捉え方にも差があると感じた。

「女」への囚われっぷりが、ハンパない。

バブルを謳歌した世代は、さまざまな欲望に正直だ。その1つに恋愛があり、男と女について、深く考えざるを得ない。

 

対して私は、バブル以降のいわゆる就職氷河期世代。バブル世代、団塊ジュニアと、ゆとり世代、さとり世代に挟まれた、かなり地味めな世代、らしい。

 

バブル以前以後で、日本経済が大きく変わったのと同じように、恋愛観、ジェンダー観も大きく変化しているだろうから、上の世代に対する違和感は、感じてしかるべきかな、と思う。

 

ただ、この「女」へのハンパない囚われっぷりこそが、この本の原動力になっていることは間違いないし、その悩みはまだ今の世代にも通じている。

 

 

 

FeedlyTwitterでブログの更新情報を受け取れます。

follow us in feedly

 

《ブログの更新情報他、いろいろ呟いてます》

広告を非表示にする